■在日韓国人らをネット中傷・排斥、控えよ…首相
(読売新聞 - 05月07日 20:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=20&from=diary&id=2420045
なぜデモが起きるに至ったか考えてみよ。以下ヒントをメモしておく。
『日本における朝鮮少数民族』エドワード・ワグナー(1951年)
P2~
戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。かれらは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって戦勝国民の 仲間入りをしようとした。朝鮮人は、一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため、国内に非常な混乱をおこした。
占領当初の数ヶ月、在日朝鮮人炭鉱労働者の頑強な反抗のために、日本の重要産業たる石炭産業の再建は障害をこうむった。経済的領域における朝鮮人のいろいろな活動は、日本経済再建への努力をたびたび阻害した。
1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育改革を朝鮮人が妨害した結果、行われたものである。引揚げについては、占領当局が決定した政策を日本政府の手で実施しようとするのを妨害した。
このような、いろいろの要因および事件のために、日本人・朝鮮人間の伝統的敵対感情は一層深くなっていった。過去と同様に、戦後においても、在日朝鮮人社会は日本人から不信と侮辱をうけ、また日本人の一般的不満感のはけ口とされた。
P3~
占領当局からみれば、朝鮮人はありがたくない余計な行政上の負担をかけるものと映った。アメリカ人の支配に対し、朝鮮人がこれを軽視したことは、日本人が表面的におだやかな受け入れ方をしたのと非常にはっきりした対照を示した。
このことは占領軍人の間ですでに高まっていた日本人尊重の念を高からしめただけでなく、占領軍人の典型的な対朝鮮人態度であったはげしい嫌悪感を一層助長した。
P14~
在日朝鮮人間の一般犯罪率は高かったようである。普通には貧困と無知が犯罪の原因であるが、ここではさらに朝鮮人が日本の法律に対してまことに無頓着であったことをあげねばならない。朝鮮人の文化的伝統からいうと、個人の法律に対する関係は主観的なものであり、このことが朝鮮人の頭にたたき込まれていた。
(中略)「無事入国を許されながら、まったく仕事につこうとせずに、国内に流浪し、いろいろな犯罪をおかす朝鮮人労働者が多数いる」という不満がある。
P21~
日本にいる朝鮮人は、アメリカの工業地域における最近の移民にまったくよく似た立場にあるから、かれらが日本人労働者の憤慨の的となり、生活程度・道徳がひくく、腹ぐろい信用のおけない「きたない外国人」と目されるのは至極当然である。不幸にして、実際にこの結論を一見裏付けるものがあり、日本の世論もこれに賛同した。無学文盲で経済的にはあぶれもののかれらが、その風采と態度をもってしては、かれらになげつけられる侮辱的なレッテルをはねかえすことは、あまりにも困難なことである。なおまた、言語が不自由な場合には、日本人の中にはいり込んできた朝鮮人の外国人的性格は実際以下に評価されざるを得なかった。
P54~
「朝鮮人の性格上注目されるのは、執念深さとその追従性、すなわち権力者に対する祟敬である…」(1943年1月警察の指令)
P55~
日本降伏直後に、一朝鮮人団体が組織されて、日本在住の全朝鮮人ならびに、すでに朝鮮に引き揚げた朝鮮人労働者のために活動すると声明した。その組織と活動方針とが全朝鮮人を包容するという点では、朝鮮人の生活を擁護し、その権利を増進するという以前の協和会にちょっと似ていた。事実、協和会の揚げた目的はそうであった。しかし、こんどの団体は、その根本的な考え方やその実行手段の多くにおいて、協和会とはまるで違っていた。表面は一種の生活擁護団体であったが、しかし中味は政治団体であり、共産主義ではなかったが、極左的であった。そして目的を達成するために、しばしば非合法と騒擾の手段に訴えた。連合国民の享受するすべての権利と特権を朝鮮人に与えることを要求した。さらに特別待遇を与えるよう尨大にして執拗な要求をした。この団体の指導下に、朝鮮人は団結して日本の「帝国主義者」に対抗した。そして、占領軍もしくは日本の一切の官憲に対して筋の通らないきわめて感情的な態度をとった。
日本降伏直後の半年ばかりは、朝鮮人は、アメリカ占領軍のやり方、その全般的には同情ある態度から便益をえた。朝鮮人をこれまで圧制的差別的待遇から解放することは、占領軍民主化方針から当然に出てくることであった。朝鮮人の各種団体が次々に行った過大な要求は、公式には決して承認されなかったが、しかしはっきりと否定されもしなかった。そして若干の点でゃ、日本人以上の特権的地位を与えられた。
他方、少なくとも、法的には朝鮮人は日本人と区別さるべきではない、という強い主張が他の占領政策のうちに暗示された。多くの朝鮮人が引き揚げないということが次第に明らかになってきたので、朝鮮人の身分を明確に定義する必要が生じてきた。さらに、朝鮮人の行う略奪行為が確認・未確認を合わせて増大した結果、占領軍が当初、朝鮮人に対してもっていた同情的態度は焦慮と敵意に変わった。こうした事情であったから、日本に在住することを選んだ朝鮮人に対して、やがて強硬手段がとられることになった。全朝鮮人は引き揚げる機会を与えられた。そして、引き揚げないものには、日本人のもたない権利は与えないことになっていた。かれらは日本国民として分類されることになり、他のすべての日本人と同様に日本の機関によって統治されるものとされた。
日本政府は、朝鮮人問題を独自に処理するため、このような前進信号の出るのを長いこと待っていたのである。きわめて多くの朝鮮人が隊をくんで、やみ取引その他の不法行為に従事していた。かれらは公然と禁止行為を行い、日本の警察の干渉を無視してかかった。最初、日本の警察は、これら不法分子をおさえようとしなかった。政府の諸機関は、中央の機関でさえ、朝鮮人諸団体を公的機関として取り扱っていた。それもこれら政府機関も警察も、解放された朝鮮人に対して、どの範囲の管轄権をもつものか見当がつかなかった。ただ占領軍から直接の命令を受けたときにだけ、日本の官憲は朝鮮人の要求を認めることを拒絶した。それも、拒絶したのは、自分たちでなく、アメリカ側であることを相手に諒解させるように気を配った。しかし、いかなる場合にも、朝鮮人の略奪行為と要求は、占領軍官憲に報告した。
占領軍官憲の下には、たちまちこの種の報告が山のように積まれたが、日本当局者は、これらの報告をたびたび全体の関連から切り離して行った。そして自分たちがいかに、問題を処理する力がないかをアメリカ側に印象づけた。
(中略)
朝鮮人の同化力欠如、その本質的な「朝鮮人根性」、しかもこの朝鮮人に変則的に日本国民という法的性格を与えたこと、ここに戦後日本における朝鮮人少数民族問題なるものをおこした異常な混乱の根本がある。
P70
日本が降伏するやいなや、朝鮮人団体が自発的に沸きあがってきた。そのすべてのものが、「日本に在住する朝鮮人の権利を増進するとともに、その生命財産を保護すること」を主張した最初、それら団体の名称は、結成の地域に応じてさまざまであった。
P72
朝鮮人の間に、その活動を行うに必要な権威と手段は、主として僣取、臨機応変主義、暴力で獲得された。すでに朝鮮人引揚計画についてみたように、朝連は前もって政府の権力と特権を獲得した。日本政府を軽蔑し、占領軍の指令を無視した。やみ屋活動・詭弁・恐喝によって財源を獲得した。
(中略)実力で追い出されるまで動かなかった。(中略)必要な施設を占拠しあるいは力づくで借りいれた。(中略)朝連のとった広範囲の非合法手段、法律無視のやり方は、その活動資金の賄ない方に現われている。
(中略)朝連は個人にかわって古い賃金・別居手当・死亡手当・障害手当などを受けとった。会社が朝連を法的権限のある代理人と認めないときは、強制手段に訴え、これがたびたび功を奏した。しかも、被傭者は、たいてい朝鮮に帰っていたので、こうしてとったものは、大体朝連の金庫にはいった。
そのほかに注目すべき朝連の収入源は、やみ取引であった。朝鮮人は朝連の連盟員の資格で、不法なやみ取引に従事したのではなかったが、朝連はそれによって間接に儲けたのであった。朝連は若干の露天商団体をその保護下におき、問題が起ったときはその交渉手腕を発揮した。
p83~
朝鮮人は自分らは解放民族で、日本人は敗戦国民であるとのあまりにも単純すぎる考えをしゃべりまわった。
在日本、在朝鮮のいずれをとわず、朝鮮人は日本の法律が彼らに適用されるわけが理解できず、そのため愉快気に日本の法律を無視する態度をとった。
p88~
比較的裕福な朝鮮人分子が日本に残留したのは、その所有財産を朝鮮に移転することができなかったからに外ならないことも思いをあわせるべきである。これらのものは、しばらくの間、非常に繁昌をきわめた。同時に、朝鮮人の他の分子は、最初のころは、終戦時の戦時産業における失業や経済的混乱の影響をあまり蒙らなかった。朝鮮人は闇市場において非常に活発に動き、また有力な朝鮮人団体から経済的その他の支持をうけた。しかし、まもなく朝鮮人の経済的運命は悪い方へと変わった。(中略)
日本に残留した朝鮮人中のあるものは、以前かれらが占めたものより非常に高度な経済的地位を得たようである。これは、手広いやみ市場取引きとか、あるいは正常でない地位や勢力を不当に利用することによって成しとげられたものであり、それ以外には、他のどんな手段で達成されたのかを想像することは困難である。もっとも、非常に多くの朝鮮人がこの繁栄を享受したとするのは誤りであろう。たしかに、朝鮮人雇用の前途は常に厳しいものであった。なぜならば、かれら朝鮮人は、日本のように熟練していなかったし、また一般に朝鮮人の雇主によってのみ機会均等を期待し得るになかったからである。
P130~
…小さな事件を派手な訴訟事件にする朝鮮人の性癖であった。朝鮮人を逮捕しようとする際に、違法者とは同じ朝鮮人の血をひいているという以外は、何の関係もない朝鮮人がこれに加わって暴徒と化した例は極めて多い。(
中略)さらに、朝鮮人は、日本に不法に入国しようとしたが、ときには伝染病を持ち込んだという事情もあって、この不安をつよめる実例を提供した。
朝鮮人は「悪者」だという心理が、時の流れとともに、日本人の心から薄れていくであろうと信ずるべき理由は、なにもないのである。
『白い手黄色い手ーー日本人の財布は狙われている』毎日新聞社1956年6月
p29~
日本にいまいる朝鮮人六十万人の資産は、動産千五百億円、不動産千五百億円といわれる。戦前はほとんどゼロに近かったのだから、まるでデン助トバクみたいなものだ。戦後数年間の混乱時代が便利な暗室になって、ぐあいよく手品のタネをかくしている。いまになって日本人からビルを買い取り、大工場をおこし、派手なキャバレーやパチンコ店を経営している朝鮮人の話が”不思議な物語!として町に伝えられるだけである。しかも、この物語はどれもこれも、戦前のみすぼらしい状態と、戦後のにわか成り金ぶりが伝えられるだけで、かんじんの開運のキッカケはボカされてしまっている。
(中略)
どうして彼らが金づるを握ったのだろう。このナゾをとくためにもう一度終戦直後のことを思い出してみよう。
”もう日本人じゃない”
日本降服の直後、マッカーサー元帥が厚木に乗りこんでくると、まっ先にこう叫び出したのは在日六十万の朝鮮人たちだった。彼らの多くは戦前出かせぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で連れてこれられたもので、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。
彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた。米でも衣料でも砂糖でも”モノ”が不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに”モノ”を動かした。当時絶対に手にはいらなかった純綿のハダ着や雑貨、菓子類、ウイスキー、外国の医薬品など彼らのヤミ市では簡単に買う事ができた。ヒロポンや密造酒が集散されたのも主にそこだった。ゴミゴミしたマーケットから金持ちが続々と生まれていった。
完全な無警察状態ー。そのいい例が二十四年春、東京深川でおこった枝川町事件である。朝鮮人四人組が月島の織物問屋から純綿八十二反を盗み出して巨利をせしめた。犯人の身元がわかり、深川署の刑事ふたりが逮捕状をもって枝川部落に出かけたところ、部落民から逆に”不審尋問”され、袋だたきの目にあった。当時の朝鮮人の鼻息がどんなにすさまじかったか、容易に想像できる。”見まい、聞くまい、振りむくまい”深川署の刑事たちはそんな言葉で自分たちの無力を嘆じあったという。
「権逸 回顧録」 育英出版社
法はあって無きに等しく、警察は文字通り無力であった。
したがって、非人道で破廉恥な行為が平然と行われ、理性が喪失した社会のようであった。このような社会状態が醸しだしたものであるかも知れないが、左翼朝鮮人だけでなく、一般の在日同胞のなかにも、故なく威張りちらして、法を無視することが少なくなかったことは、良識ある同胞の憂慮するとこであったし、私たちは見るに忍びなかった。
当然のように無賃乗車する者もいたり、中には白墨で車内に『朝鮮人専用』と書いて他人が入るのを拒むことすらあった。傍若無人というほかなかった。
顧みると、当時のこのような行動は、長い間抑圧されてきた者の自然発生的な反発感から出たものであり、またそれらの者たちにとって感情的に痛快感が得られたかもしれないが、このような行為は敗戦で萎縮した日本人の胸に、朝鮮人に対する憎悪を植えつける要因になったのではないだろうか
「田岡一雄自伝 電撃篇」田岡一雄 徳間書店(1971年初版)
子供の目前で母親を強姦して喜ぶ朝鮮人たち 終戦直後のエピソード
通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、
無銭飲食をし、白昼の路上で集団で婦女子にいたずらをする。
善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。
こういった不良分子は旧陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首に巻きつけ、
肩で風を切って町をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげた彼らの略奪、
暴行には目にあまるものがあった。 警官が駆けつけてきても手も足も出ない。
「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」
警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
(中略
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服(朝鮮人)の男たちだった。
衆議院議員 椎熊三郎の国会演説1946年8月17日
降伏のときまで、日本人として日本に在住してきた台湾人朝鮮人が、あたかも戦勝国民であるかのように威張っているのをわれわれは傍観黙視しておれない。なる程われわれは敗戦国民に違いないが、降伏の最後の瞬間まで、日本の法令下に生活してきたものが、急に征服者のように振る舞う態度をとり、なんらの許可もなく占領軍専用の鉃道車両に乗り込み、日本人乗客を侮蔑・圧迫し、あるいはその他の場所で言語道断の暴力を働くことは慨嘆に堪えない。これら朝鮮人台湾人の行動は敗戦の苦しみの中にあるわれわれの血をわきたたせる。
朝鮮人は全ての闇市場の中核をなし、また彼らの無法な行動は今日の日本の全ての商取引や社会生活に影響を及ぼしている。彼らは警察をはばからず、輸出入禁制品の取引を誇示し、また何らの税を払っていない。流通新円の三分の一は今や彼らの手中にあるとの風評がある。石橋湛山大蔵大臣は一週間前に国会で『500億の流通円のうち200億円は引き揚げずに日本に残っている第三国人の手の中にある』と述べた。もしこの風説にして真実とするならば、無力の日本商人は、それら朝鮮人・台湾人の手中に帰したと言われている。
日本人の見た戦後日韓関係 「現代コリア」田中明1992年12月
「敗戦直後の在日朝鮮人は、敗戦国の無力な警察を嘲笑しつつ、暴力と脱法行為で虚脱状態の日本社会を我がもの顔に横行した。超満員の列車から日本人を引きずりおろして、自分たちが占領するといった光景は、決して珍しいものではなかった。くどくどいうのは控えたいが、その有様は、かつて居留民団の団長をし、本国の国会議員にもなった権逸氏が、著書『回顧録』のなかで『今でもそのときのことを思い出すと、全身から汗が流れる思いがする』と書いていることから想像していただきたい。そうした姿は『朝鮮人=無法者集団』という印象を日本人の胸に強く植え付けた。外国人の指紋押捺制度が1955年に採用されたのも、上記との関連があった。朝鮮人による外国人登録証明書の不正受給や偽造変造があまりにも多かったのである。密航者のための登録証偽造や、実在しない人間の登録証を役所に作らせて(脅迫や買収が絡む)それを売ったり、そうした幽霊人口によって得た配給資料をヤミ市場に流すなど、さまざまな不正があった」
『朝鮮人の取扱について 朝日新聞1946年7月13日社説
去る3月18日を以って登録を終えた非日本人在籍数は、外務省の集計によると、
87万8千余名となっている。
ここに非日本人というのは朝鮮人、琉球人、中国人(台湾省民を含む)である。このうち登録した朝鮮人の数は約64万7千名であり、うち朝鮮に引揚を希望したものは約51万4千名となっている。
引揚を希望する中国人、琉球人の送還はすでに完了し、朝鮮人の引揚も、連合軍の好意によって順調に進み、大体9月中には終わる見込みである。残留する朝鮮人の数はどの位であろうか。
登録漏れの朝鮮人も相当数に上ることが想像されるし、また引揚希望者でありながら、指定の船に乗らぬため、無賃帰国の権利を失うものもあるので、残留者は統計面に現れた数字の数倍に上るものとみてよかろう。
日本の統治下にあった朝鮮が、戦争中の戦力増強のため、いくたの犠牲を払ったことや、内地在留の彼らが、軍需生産部門に膨大な労働力を提供したことについて、われらは感謝するものである。
しかし、終戦後の生活振りについては、率直にいって日本人の感情を刺激したものも少なくなかった。たとえば一部のものが闇市場に根を張り、物資の出廻りや、物価をかき乱したことなど、それである。
朝鮮人が政府の統制の圏外にあるものとして、自らの生活擁護のみ急な余り、政府の食料・物価政策などに悪い影響を及ぼしていることのあるのは否定できない。今後数は減っても、なお残留朝鮮人の生活が、同様に政府の政策遂行に影響を持つであろうことは否定しがたい。
マッカーサー司令部の意向としては、残留する朝鮮人はわが警察権の行使を拒否することが出来ないことになっている。
しかしながら、日本の警察当局が、個々の事件の場合において、朝鮮人に対して、力を十分に発揮できないのが現状である。その結果、時にはその朝鮮人の行動が、戦争中融和していた日鮮人間の感情を疎遠することの生ずるのを悲しむものである。
われらは残留朝鮮人が日本の再建途上の困難を理解し、これに協力することを期待してやまない。』
1949年に吉田茂首相は連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥に「在日朝鮮人の全員送還を望む」と題する朝鮮人送還を求める嘆願書を提出している。
嘆願書では台湾人はあまり問題を起こしていないとして朝鮮人のみの送還を強く訴えた。
吉田首相は朝鮮人の半数が不法入国者であることを明らかにしたうえで、問題点を指摘した。
1.日本の食糧事情がひっ迫しており朝鮮人の分まで輸入するのは将来の世代への負債となり公正ではないこと
2.朝鮮人の大多数は日本経済の再建に貢献していないこと。
3.朝鮮人は犯罪を犯す割合が高く、日本国の経済法規を破る常習犯であること。
かなりの数が共産主義者とその同調者であること。投獄者が常に7,000人を越えること。
朝鮮人の送還費用は日本政府が負担するとして、マッカーサーに送還の承認を嘆願した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ 在日韓国・朝鮮人
(読売新聞 - 05月07日 20:01)
http://
なぜデモが起きるに至ったか考えてみよ。以下ヒントをメモしておく。
『日本における朝鮮少数民族』エドワード・ワグナー(1951年)
P2~
戦後の日本においては、朝鮮人少数民族は、いつも刺戟的な勢力であった。数においては大いに減ったものの、朝鮮人は、依然として実に口喧しい、感情的・徒党的集団である。かれらは絶対に敗戦者の日本人には加担しようとせず、かえって戦勝国民の 仲間入りをしようとした。朝鮮人は、一般に、日本の法律はかれらに適用され得ないものとし、アメリカ占領軍の指令も同じようにほとんど意に介しなかった。そのため、国内に非常な混乱をおこした。
占領当初の数ヶ月、在日朝鮮人炭鉱労働者の頑強な反抗のために、日本の重要産業たる石炭産業の再建は障害をこうむった。経済的領域における朝鮮人のいろいろな活動は、日本経済再建への努力をたびたび阻害した。
1948年の神戸における緊急事態宣言は、日本の教育改革を朝鮮人が妨害した結果、行われたものである。引揚げについては、占領当局が決定した政策を日本政府の手で実施しようとするのを妨害した。
このような、いろいろの要因および事件のために、日本人・朝鮮人間の伝統的敵対感情は一層深くなっていった。過去と同様に、戦後においても、在日朝鮮人社会は日本人から不信と侮辱をうけ、また日本人の一般的不満感のはけ口とされた。
P3~
占領当局からみれば、朝鮮人はありがたくない余計な行政上の負担をかけるものと映った。アメリカ人の支配に対し、朝鮮人がこれを軽視したことは、日本人が表面的におだやかな受け入れ方をしたのと非常にはっきりした対照を示した。
このことは占領軍人の間ですでに高まっていた日本人尊重の念を高からしめただけでなく、占領軍人の典型的な対朝鮮人態度であったはげしい嫌悪感を一層助長した。
P14~
在日朝鮮人間の一般犯罪率は高かったようである。普通には貧困と無知が犯罪の原因であるが、ここではさらに朝鮮人が日本の法律に対してまことに無頓着であったことをあげねばならない。朝鮮人の文化的伝統からいうと、個人の法律に対する関係は主観的なものであり、このことが朝鮮人の頭にたたき込まれていた。
(中略)「無事入国を許されながら、まったく仕事につこうとせずに、国内に流浪し、いろいろな犯罪をおかす朝鮮人労働者が多数いる」という不満がある。
P21~
日本にいる朝鮮人は、アメリカの工業地域における最近の移民にまったくよく似た立場にあるから、かれらが日本人労働者の憤慨の的となり、生活程度・道徳がひくく、腹ぐろい信用のおけない「きたない外国人」と目されるのは至極当然である。不幸にして、実際にこの結論を一見裏付けるものがあり、日本の世論もこれに賛同した。無学文盲で経済的にはあぶれもののかれらが、その風采と態度をもってしては、かれらになげつけられる侮辱的なレッテルをはねかえすことは、あまりにも困難なことである。なおまた、言語が不自由な場合には、日本人の中にはいり込んできた朝鮮人の外国人的性格は実際以下に評価されざるを得なかった。
P54~
「朝鮮人の性格上注目されるのは、執念深さとその追従性、すなわち権力者に対する祟敬である…」(1943年1月警察の指令)
P55~
日本降伏直後に、一朝鮮人団体が組織されて、日本在住の全朝鮮人ならびに、すでに朝鮮に引き揚げた朝鮮人労働者のために活動すると声明した。その組織と活動方針とが全朝鮮人を包容するという点では、朝鮮人の生活を擁護し、その権利を増進するという以前の協和会にちょっと似ていた。事実、協和会の揚げた目的はそうであった。しかし、こんどの団体は、その根本的な考え方やその実行手段の多くにおいて、協和会とはまるで違っていた。表面は一種の生活擁護団体であったが、しかし中味は政治団体であり、共産主義ではなかったが、極左的であった。そして目的を達成するために、しばしば非合法と騒擾の手段に訴えた。連合国民の享受するすべての権利と特権を朝鮮人に与えることを要求した。さらに特別待遇を与えるよう尨大にして執拗な要求をした。この団体の指導下に、朝鮮人は団結して日本の「帝国主義者」に対抗した。そして、占領軍もしくは日本の一切の官憲に対して筋の通らないきわめて感情的な態度をとった。
日本降伏直後の半年ばかりは、朝鮮人は、アメリカ占領軍のやり方、その全般的には同情ある態度から便益をえた。朝鮮人をこれまで圧制的差別的待遇から解放することは、占領軍民主化方針から当然に出てくることであった。朝鮮人の各種団体が次々に行った過大な要求は、公式には決して承認されなかったが、しかしはっきりと否定されもしなかった。そして若干の点でゃ、日本人以上の特権的地位を与えられた。
他方、少なくとも、法的には朝鮮人は日本人と区別さるべきではない、という強い主張が他の占領政策のうちに暗示された。多くの朝鮮人が引き揚げないということが次第に明らかになってきたので、朝鮮人の身分を明確に定義する必要が生じてきた。さらに、朝鮮人の行う略奪行為が確認・未確認を合わせて増大した結果、占領軍が当初、朝鮮人に対してもっていた同情的態度は焦慮と敵意に変わった。こうした事情であったから、日本に在住することを選んだ朝鮮人に対して、やがて強硬手段がとられることになった。全朝鮮人は引き揚げる機会を与えられた。そして、引き揚げないものには、日本人のもたない権利は与えないことになっていた。かれらは日本国民として分類されることになり、他のすべての日本人と同様に日本の機関によって統治されるものとされた。
日本政府は、朝鮮人問題を独自に処理するため、このような前進信号の出るのを長いこと待っていたのである。きわめて多くの朝鮮人が隊をくんで、やみ取引その他の不法行為に従事していた。かれらは公然と禁止行為を行い、日本の警察の干渉を無視してかかった。最初、日本の警察は、これら不法分子をおさえようとしなかった。政府の諸機関は、中央の機関でさえ、朝鮮人諸団体を公的機関として取り扱っていた。それもこれら政府機関も警察も、解放された朝鮮人に対して、どの範囲の管轄権をもつものか見当がつかなかった。ただ占領軍から直接の命令を受けたときにだけ、日本の官憲は朝鮮人の要求を認めることを拒絶した。それも、拒絶したのは、自分たちでなく、アメリカ側であることを相手に諒解させるように気を配った。しかし、いかなる場合にも、朝鮮人の略奪行為と要求は、占領軍官憲に報告した。
占領軍官憲の下には、たちまちこの種の報告が山のように積まれたが、日本当局者は、これらの報告をたびたび全体の関連から切り離して行った。そして自分たちがいかに、問題を処理する力がないかをアメリカ側に印象づけた。
(中略)
朝鮮人の同化力欠如、その本質的な「朝鮮人根性」、しかもこの朝鮮人に変則的に日本国民という法的性格を与えたこと、ここに戦後日本における朝鮮人少数民族問題なるものをおこした異常な混乱の根本がある。
P70
日本が降伏するやいなや、朝鮮人団体が自発的に沸きあがってきた。そのすべてのものが、「日本に在住する朝鮮人の権利を増進するとともに、その生命財産を保護すること」を主張した最初、それら団体の名称は、結成の地域に応じてさまざまであった。
P72
朝鮮人の間に、その活動を行うに必要な権威と手段は、主として僣取、臨機応変主義、暴力で獲得された。すでに朝鮮人引揚計画についてみたように、朝連は前もって政府の権力と特権を獲得した。日本政府を軽蔑し、占領軍の指令を無視した。やみ屋活動・詭弁・恐喝によって財源を獲得した。
(中略)実力で追い出されるまで動かなかった。(中略)必要な施設を占拠しあるいは力づくで借りいれた。(中略)朝連のとった広範囲の非合法手段、法律無視のやり方は、その活動資金の賄ない方に現われている。
(中略)朝連は個人にかわって古い賃金・別居手当・死亡手当・障害手当などを受けとった。会社が朝連を法的権限のある代理人と認めないときは、強制手段に訴え、これがたびたび功を奏した。しかも、被傭者は、たいてい朝鮮に帰っていたので、こうしてとったものは、大体朝連の金庫にはいった。
そのほかに注目すべき朝連の収入源は、やみ取引であった。朝鮮人は朝連の連盟員の資格で、不法なやみ取引に従事したのではなかったが、朝連はそれによって間接に儲けたのであった。朝連は若干の露天商団体をその保護下におき、問題が起ったときはその交渉手腕を発揮した。
p83~
朝鮮人は自分らは解放民族で、日本人は敗戦国民であるとのあまりにも単純すぎる考えをしゃべりまわった。
在日本、在朝鮮のいずれをとわず、朝鮮人は日本の法律が彼らに適用されるわけが理解できず、そのため愉快気に日本の法律を無視する態度をとった。
p88~
比較的裕福な朝鮮人分子が日本に残留したのは、その所有財産を朝鮮に移転することができなかったからに外ならないことも思いをあわせるべきである。これらのものは、しばらくの間、非常に繁昌をきわめた。同時に、朝鮮人の他の分子は、最初のころは、終戦時の戦時産業における失業や経済的混乱の影響をあまり蒙らなかった。朝鮮人は闇市場において非常に活発に動き、また有力な朝鮮人団体から経済的その他の支持をうけた。しかし、まもなく朝鮮人の経済的運命は悪い方へと変わった。(中略)
日本に残留した朝鮮人中のあるものは、以前かれらが占めたものより非常に高度な経済的地位を得たようである。これは、手広いやみ市場取引きとか、あるいは正常でない地位や勢力を不当に利用することによって成しとげられたものであり、それ以外には、他のどんな手段で達成されたのかを想像することは困難である。もっとも、非常に多くの朝鮮人がこの繁栄を享受したとするのは誤りであろう。たしかに、朝鮮人雇用の前途は常に厳しいものであった。なぜならば、かれら朝鮮人は、日本のように熟練していなかったし、また一般に朝鮮人の雇主によってのみ機会均等を期待し得るになかったからである。
P130~
…小さな事件を派手な訴訟事件にする朝鮮人の性癖であった。朝鮮人を逮捕しようとする際に、違法者とは同じ朝鮮人の血をひいているという以外は、何の関係もない朝鮮人がこれに加わって暴徒と化した例は極めて多い。(
中略)さらに、朝鮮人は、日本に不法に入国しようとしたが、ときには伝染病を持ち込んだという事情もあって、この不安をつよめる実例を提供した。
朝鮮人は「悪者」だという心理が、時の流れとともに、日本人の心から薄れていくであろうと信ずるべき理由は、なにもないのである。
『白い手黄色い手ーー日本人の財布は狙われている』毎日新聞社1956年6月
p29~
日本にいまいる朝鮮人六十万人の資産は、動産千五百億円、不動産千五百億円といわれる。戦前はほとんどゼロに近かったのだから、まるでデン助トバクみたいなものだ。戦後数年間の混乱時代が便利な暗室になって、ぐあいよく手品のタネをかくしている。いまになって日本人からビルを買い取り、大工場をおこし、派手なキャバレーやパチンコ店を経営している朝鮮人の話が”不思議な物語!として町に伝えられるだけである。しかも、この物語はどれもこれも、戦前のみすぼらしい状態と、戦後のにわか成り金ぶりが伝えられるだけで、かんじんの開運のキッカケはボカされてしまっている。
(中略)
どうして彼らが金づるを握ったのだろう。このナゾをとくためにもう一度終戦直後のことを思い出してみよう。
”もう日本人じゃない”
日本降服の直後、マッカーサー元帥が厚木に乗りこんでくると、まっ先にこう叫び出したのは在日六十万の朝鮮人たちだった。彼らの多くは戦前出かせぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で連れてこれられたもので、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。
彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた。米でも衣料でも砂糖でも”モノ”が不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに”モノ”を動かした。当時絶対に手にはいらなかった純綿のハダ着や雑貨、菓子類、ウイスキー、外国の医薬品など彼らのヤミ市では簡単に買う事ができた。ヒロポンや密造酒が集散されたのも主にそこだった。ゴミゴミしたマーケットから金持ちが続々と生まれていった。
完全な無警察状態ー。そのいい例が二十四年春、東京深川でおこった枝川町事件である。朝鮮人四人組が月島の織物問屋から純綿八十二反を盗み出して巨利をせしめた。犯人の身元がわかり、深川署の刑事ふたりが逮捕状をもって枝川部落に出かけたところ、部落民から逆に”不審尋問”され、袋だたきの目にあった。当時の朝鮮人の鼻息がどんなにすさまじかったか、容易に想像できる。”見まい、聞くまい、振りむくまい”深川署の刑事たちはそんな言葉で自分たちの無力を嘆じあったという。
「権逸 回顧録」 育英出版社
法はあって無きに等しく、警察は文字通り無力であった。
したがって、非人道で破廉恥な行為が平然と行われ、理性が喪失した社会のようであった。このような社会状態が醸しだしたものであるかも知れないが、左翼朝鮮人だけでなく、一般の在日同胞のなかにも、故なく威張りちらして、法を無視することが少なくなかったことは、良識ある同胞の憂慮するとこであったし、私たちは見るに忍びなかった。
当然のように無賃乗車する者もいたり、中には白墨で車内に『朝鮮人専用』と書いて他人が入るのを拒むことすらあった。傍若無人というほかなかった。
顧みると、当時のこのような行動は、長い間抑圧されてきた者の自然発生的な反発感から出たものであり、またそれらの者たちにとって感情的に痛快感が得られたかもしれないが、このような行為は敗戦で萎縮した日本人の胸に、朝鮮人に対する憎悪を植えつける要因になったのではないだろうか
「田岡一雄自伝 電撃篇」田岡一雄 徳間書店(1971年初版)
子供の目前で母親を強姦して喜ぶ朝鮮人たち 終戦直後のエピソード
通りすがりの通行人の目つきが気に食わないといっては難くせをつけ、
無銭飲食をし、白昼の路上で集団で婦女子にいたずらをする。
善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた。
こういった不良分子は旧陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首に巻きつけ、
肩で風を切って町をのし歩いた。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引っさげた彼らの略奪、
暴行には目にあまるものがあった。 警官が駆けつけてきても手も足も出ない。
「俺たちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人が何をいうか」
警官は小突き回され、サーベルはヘシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
(中略
一瞬、ぎくりと立ちどまり、悲鳴のあがる方角に走った。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女は私に泣きじゃくりながらしがみつく。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」私は少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。飛行服(朝鮮人)の男たちだった。
衆議院議員 椎熊三郎の国会演説1946年8月17日
降伏のときまで、日本人として日本に在住してきた台湾人朝鮮人が、あたかも戦勝国民であるかのように威張っているのをわれわれは傍観黙視しておれない。なる程われわれは敗戦国民に違いないが、降伏の最後の瞬間まで、日本の法令下に生活してきたものが、急に征服者のように振る舞う態度をとり、なんらの許可もなく占領軍専用の鉃道車両に乗り込み、日本人乗客を侮蔑・圧迫し、あるいはその他の場所で言語道断の暴力を働くことは慨嘆に堪えない。これら朝鮮人台湾人の行動は敗戦の苦しみの中にあるわれわれの血をわきたたせる。
朝鮮人は全ての闇市場の中核をなし、また彼らの無法な行動は今日の日本の全ての商取引や社会生活に影響を及ぼしている。彼らは警察をはばからず、輸出入禁制品の取引を誇示し、また何らの税を払っていない。流通新円の三分の一は今や彼らの手中にあるとの風評がある。石橋湛山大蔵大臣は一週間前に国会で『500億の流通円のうち200億円は引き揚げずに日本に残っている第三国人の手の中にある』と述べた。もしこの風説にして真実とするならば、無力の日本商人は、それら朝鮮人・台湾人の手中に帰したと言われている。
日本人の見た戦後日韓関係 「現代コリア」田中明1992年12月
「敗戦直後の在日朝鮮人は、敗戦国の無力な警察を嘲笑しつつ、暴力と脱法行為で虚脱状態の日本社会を我がもの顔に横行した。超満員の列車から日本人を引きずりおろして、自分たちが占領するといった光景は、決して珍しいものではなかった。くどくどいうのは控えたいが、その有様は、かつて居留民団の団長をし、本国の国会議員にもなった権逸氏が、著書『回顧録』のなかで『今でもそのときのことを思い出すと、全身から汗が流れる思いがする』と書いていることから想像していただきたい。そうした姿は『朝鮮人=無法者集団』という印象を日本人の胸に強く植え付けた。外国人の指紋押捺制度が1955年に採用されたのも、上記との関連があった。朝鮮人による外国人登録証明書の不正受給や偽造変造があまりにも多かったのである。密航者のための登録証偽造や、実在しない人間の登録証を役所に作らせて(脅迫や買収が絡む)それを売ったり、そうした幽霊人口によって得た配給資料をヤミ市場に流すなど、さまざまな不正があった」
『朝鮮人の取扱について 朝日新聞1946年7月13日社説
去る3月18日を以って登録を終えた非日本人在籍数は、外務省の集計によると、
87万8千余名となっている。
ここに非日本人というのは朝鮮人、琉球人、中国人(台湾省民を含む)である。このうち登録した朝鮮人の数は約64万7千名であり、うち朝鮮に引揚を希望したものは約51万4千名となっている。
引揚を希望する中国人、琉球人の送還はすでに完了し、朝鮮人の引揚も、連合軍の好意によって順調に進み、大体9月中には終わる見込みである。残留する朝鮮人の数はどの位であろうか。
登録漏れの朝鮮人も相当数に上ることが想像されるし、また引揚希望者でありながら、指定の船に乗らぬため、無賃帰国の権利を失うものもあるので、残留者は統計面に現れた数字の数倍に上るものとみてよかろう。
日本の統治下にあった朝鮮が、戦争中の戦力増強のため、いくたの犠牲を払ったことや、内地在留の彼らが、軍需生産部門に膨大な労働力を提供したことについて、われらは感謝するものである。
しかし、終戦後の生活振りについては、率直にいって日本人の感情を刺激したものも少なくなかった。たとえば一部のものが闇市場に根を張り、物資の出廻りや、物価をかき乱したことなど、それである。
朝鮮人が政府の統制の圏外にあるものとして、自らの生活擁護のみ急な余り、政府の食料・物価政策などに悪い影響を及ぼしていることのあるのは否定できない。今後数は減っても、なお残留朝鮮人の生活が、同様に政府の政策遂行に影響を持つであろうことは否定しがたい。
マッカーサー司令部の意向としては、残留する朝鮮人はわが警察権の行使を拒否することが出来ないことになっている。
しかしながら、日本の警察当局が、個々の事件の場合において、朝鮮人に対して、力を十分に発揮できないのが現状である。その結果、時にはその朝鮮人の行動が、戦争中融和していた日鮮人間の感情を疎遠することの生ずるのを悲しむものである。
われらは残留朝鮮人が日本の再建途上の困難を理解し、これに協力することを期待してやまない。』
1949年に吉田茂首相は連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥に「在日朝鮮人の全員送還を望む」と題する朝鮮人送還を求める嘆願書を提出している。
嘆願書では台湾人はあまり問題を起こしていないとして朝鮮人のみの送還を強く訴えた。
吉田首相は朝鮮人の半数が不法入国者であることを明らかにしたうえで、問題点を指摘した。
1.日本の食糧事情がひっ迫しており朝鮮人の分まで輸入するのは将来の世代への負債となり公正ではないこと
2.朝鮮人の大多数は日本経済の再建に貢献していないこと。
3.朝鮮人は犯罪を犯す割合が高く、日本国の経済法規を破る常習犯であること。
かなりの数が共産主義者とその同調者であること。投獄者が常に7,000人を越えること。
朝鮮人の送還費用は日本政府が負担するとして、マッカーサーに送還の承認を嘆願した。
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昭和30年06月18日 第022回国会 法務委員会 第23号に於ける、
小泉純也政府委員の発言です。
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60万と推計をせられる朝鮮人のうち、
日本から母国に帰りたいという者は、一人もいないといっても大した言い過ぎではない。
一方向うからは、入れれば、それこそ手段方法を選ばず、命がけでも密航をして、
方法さえつけば怒濤のごとくどんどん入って来る。
こちらから強制送還をしようといたしましても、
韓国の政府がこれを容易に受け付けないというところに、
人道問題だけでは解決しない大きな国と国との外交問題と申しますか、
もう入国管理局だけでは手に負えない
大きな外交問題となってここに横たわっておるのは、私が申し上げるまでもなく、
御理解をいただいておると思うのであります。
ですから要するに、
こちらは国際的ないわゆる紳士としての態度をもって韓国に接しましても、
韓国の方は、紳士的でないとは申しませんが、
御承知の通り李承晩ライン、その他漁船の拿捕の問題、
こちらから、密航した者を密航したという確証をあげて韓国に申し入れましても、
その送還を容易に受け付けない。
こちらは向うから出てきた者を受け入れっぱなし、
不法入国であろうが何であろうが、
返すことができないで、大村収容所にはますます人員がふえていく、
それをみな国費で、国民の血税で養ってやらなければならない、
その取扱いについても、きわめて懇切丁寧にしなければ、人権蹂躙というような
問題まで起きてくる。
これを大まかに考えますと、一体日本のためにやらなければならないのか、
日本国民の血税の犠牲において、
韓国人をまず第一義として大事にしてあげなければならないか
というようなところまで、
考え方によっては行く問題であると私は思うのであります。 (以下略)
第022回国会 法務委員会 第23号昭和30年6月18日(土曜日午前10時59分開議)より、一部抜粋。