モンゴル帝国の武士評
王惲『汎海小録』
「兵杖には弓、刀、甲がある。しかし戈矛は無い。武士は騎兵を結束している。殊に武士の精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者
が甚々多い。 刀は長くて極めて犀なるものを造り、洞物に入れて、出し入れする。
ただ、弓は木を以って之を為り、矢は威力はあるが、遠くには届かない。
人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れない。」
鄭思肖『心史』
「倭人は狠、死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、
帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、愛すべからず。倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、
戦守の計を為すべし」
呉莱『隣交徴書』
「今の倭奴は昔の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。
さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。
海道の兵は、猝かに対応できない。(中略)士気を喪い国体を弱めるのは、これより大きなことはない。しかし、その地を取っても国に益することはなく、またその人を掠しても
兵を強めることはない。」
「武藝圖譜通志」の記述
「倭軍と対陣すると、倭軍はたちまち死に物狂いで突進してくる。
我が軍は、手に槍を持ち、剣を帯びていても、その剣は鞘を出る暇も無く、
槍は矛先を交えることもできずに、凶刃のもとにやられてしまうのである」
程宗猷 「単刀法選」
日本刀法は神秘的だ。
左右への変化がすさまじく誰にも予測できない。
そのせいで槍を持ってしても毎回日本刀に負けてしまう。
戚継光 「紀効新書・長刀解」
此自倭犯中國始有之。
彼以此跳舞、光閃而前、我兵已奪氣矣。
倭善躍、一迸足則丈餘、刀長五尺、則丈五尺矣。
我兵短器難接、長器不捷、遭之者身多兩斷、縁器利而雙手使、用力重故也。
(此は日本の武士が支那に攻めてきた時初めてわかったことである。
彼らは舞うように動き回り、前方への突進力は光が閃くようで我ら明の兵は気を奪われるのみだった。
日本人はよく躍動し、一度動き出せば丈あまり、刀の長さは五尺なので一丈五尺の間合でも攻撃される。
我が兵の剣では近づき難く、槍では遅すぎ、遭遇すればみな両断されて殺される。
これは彼らの武器が鋭利であり、両手で振れる強力で重い刀を自在に用いているためである。)屈大均
日本人が全力で動くとき風のように漂って動く。
常に寡兵で陣に入って、たくさんの兵も抵抗できない。
その刀の使い方は、長い方で構え守り、短いほうで止めを刺す。
しゃがんでいるかのごとく低く移動し、決して下がらない。
相手が何人いようと対応する、日本列島の中だけの絶技である。揮刀如神より
「倭、性殺を好み一家一刀を蓄えざる者なく童にしてこれを習い壮にしてこれに精し。
故に短兵相接するは乃ち倭奴の長ずる所、中国の民の敵し難き所なり。
その嫌う所の物は火器のみ。
然るに多くの鳥銃手を擁して居ながら我兵勝てぬのは外でもない。
倭人は戦いに臨んで命を忘れるが、我兵はこれを臨んで即ち恐れ走るため、
その鉛子は地に堕ち、あるいは薬線が法なく、手震え、目眩み、天を仰いで空しく発する為なり。」「両手を用いる日本の剣術は、ヨーロッパのどの国のFencingよりも格段に優れている」
アーノルダス・モンタヌス「日本誌」
戦いは日本人の頗る喜ぶ所なり。
彼等の武器は鉄砲弓矢の外に刀あり。
刀は非常に能く鍛えられあればヨーロッパ流の刀身などは容易にこれにて切断せらるべし。「日本刀を完璧に扱える日本人は、刀を抜いたその動作から一気に斬りつけ、
相手がその動きを一瞬の間に気づいて避けない限り、敵の頭を二つに両断することができると言われている。
当然のことながら欧米人はこの武器を極度に危険な物と見なし、
刀を抜きそうな素振りを見せた時にはその場で直ちにそのサムライを射殺しても正当防衛であるとしている。
一瞬でもためらえば、自分の方が犠牲になるのは明白だからである」李氏朝鮮宰相、柳成竜「懲毖録」
日本武士は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
武士はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。
イエズス会ジャン・クラッセ(1618-1692)「日本西教史」
日本人の特に習練するものは武術なり。
男子はすべて十二歳にして刀剣を侃び、
これより後は夜間休憩する時の外は腰間の秋水を脱せず、
寝に就くの時と錐も、尚枕頭にこれを安置して、
睡眠中と難も、曾つて武事を忘れざるを示す。
武器は湾曲剣、短剣、小銃、弓箭あり。
その剣は精練を極めて鋭利なること、
これを以ってヨーロッパの剣を両断するとも刀口なお疵痕を残さずと云う程なり。
ここまで読んだ人は武士が人を切る残酷な人に思えたかもしれません。しかし、違うのです。これを見て下さい。
「万民は完全に一致協和し、皆その神々を敬い、法律を尊守し、長上の意思に従い、
同輩には礼儀と友誼を尽くしている。
この人々は、習俗、道徳、技芸、立ち振る舞いの点でどの国の人々にも勝り、
国内交易は繁盛し、肥沃な田畑に恵まれ、頑強な肉体と豪胆な気性を持ち、
生活必需品は有り余るほどに豊富であり、国内には不断の平和が続き、
かくして世界でも稀に見るほどの幸福な国民である。
もし日本国民の一人が彼の現在の境遇と昔の自由な時代とを比較してみた場合、
あるいは祖国の歴史の太古の昔を顧みた場合、
彼は、一人の君主の至高の意思によって統御され、
海外の全世界との交通を一切断ち切られて完全な閉鎖状態に置かれている現在ほどに、
国民の幸福がより良く実現している時代を遂に見いだすことはできないであろう」
ケンペル「日本誌」他にも
「シュリーマン旅行記 清国・日本」より
(横浜港に着いた際、税関の官吏は)中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。
荷物を解くとなると大仕事だ。
できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ一分(二・五フラン)ずつ出した。
(シュリーマンは日本に来る前に清(現在の中国)などもまわっており、彼らの人間性や当時の環境に大変な目にあっている。そのため、開けて因縁をつけお金を要求されたりするのを警戒した。また金で多くの人は動いたため、面倒な事は金で片付けようとしたのである。シュリーマンが当時の清国をぼろくそに書いてるのは、なんだかうけてしまう)
ところが何と彼らは、自分の胸を叩いて「ニッポンムスコ」(日本男児?)と言い、これを拒んだ。
日本男児たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである。
おかげで私は荷物を開けなければならなかったが、彼らは言いがかりをつけるどころか、ほんの上辺だけの検査で満足してくれた。
一言で言えば、たいへん好意的で親切な応対だった。
彼らはふたたび深々とおじぎをしながら、「サイナラ」(さようなら)と言った。
…彼ら(役人)に対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金で贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである。
日本はスパイ天国で書いた
ある中国人は女、金、脅しの三種の神器があれば、落ちない日本人はまずいないと豪語する!
http://kanryuudaisuki.ldblog.jp/archives/33769843.html
この理屈が武士には通じないのである。金も脅しも女も通じず、心が問題なのだ。ちなみにシュリーマンに武士の護衛がつくが、命懸けの任務でも彼らは多大なお金を請求していない。
また、鍵がない家で泥棒が発生しない道徳心の強さにも驚嘆している。
世界でも希に見る強さと気高き精神の両方を持っていたのが我々のご先祖様です。どちらか一つでもかけていれば、今の我々はここに存在していません。日本は小国です。小国でも占領されずに我々が生きているのは、かつて強くて優しいご先祖様がいたからです。武力がなければ占領され、今のチベットのように自由を奪われ非道の限りを尽くされていたでしょう。
ちなみにチベットのようにを簡単に説明すると、街中監視カメラだらけの中、自国の文化をとりあげられ、女は犯し、男は殺し民族を薄め同化させていったりします。
殺ろした人は罪にならず、次々に虐殺され、武器も取り上げられ反逆の機会を奪われます。
冤罪や故意に捕まえた人には、中国は優しい国ですと言えとか、何らかの罪を自演するように言われたりする。それを断れば拷問。写真付きの資料がいくらでも出てくるので各々調べて欲しい。
国を守る力がないという事は、つまり我々がこういった事をされる側になりかねないという事です。
我々は戦後教育で自虐史観を植えつけられました。日本軍は残酷だと教えられました。しかし、日本軍もかつての武士と同じ存在だったのです。彼らは強い武力がありながらも心を失わず、現地の人には日本人と同じ教育をしていたのです。これを残酷と我々は教えられましたが、その時代、他国では教育はしないのが当たり前でした。文字を覚え知識レベルがあがれば反逆の機会も増えるためです。
しかし、日本人は現地の人に日本人と同じように接していたのです。あの時代、日本軍よりも道徳的に占領下においた国はあるでしょうか。
自衛隊がいらないと言う人は、警察がなくなると犯罪が消えると言ってるようなものです。軍がなければ、我々はチベットのように自由を奪われるだけです。自虐史観で軍の解体を進めるのではなく、かつての日本のように、 強くて道徳心あふれる軍隊を作っていくべきたと思うのです。軍隊をなくすのは世界各国の道徳心があがり、軍事的脅威が無くなった時で良いのです。
隣国からミサイルが飛んでくる。島は占領される。尖閣も狙われる。こんな状況で軍を解体。平和などと言ってるのは脳内お花畑すぎです。軍がなければ尖閣どころか日本もなくなってますよ。
今ここに暮らす日本人は、間違いなく武士の血を引いています。強く優しい日本を作る事はきっと出来るはずです。
靖国神社が残酷な人殺しがまつられてると思った人は、少しは見方が変わったでしょうか。今の我々がいるのは、命を投げ出してまで日本を守ってくれたご先祖様のおかげです。本当に有難う。
本当の日本の歴史さんより
台湾には戦後もずっと一日も休むことなく
「君が代」が歌われているところがある。
それは台南の飛虎将軍廟である。
この廟に祀られているのは、大東亜戦争末期、昭和19年10月12日、
台南近郊の上空で米軍機に体当たり攻撃をして果てた零戦パイロット
杉浦茂峰ら三名の海軍航空隊兵士である。
空中戦を観戦していた農民たちは、畑に墜落した彼等の遺体を収容し、
護国の神として廟を建てたのである。
「君が代」と、そして「海ゆかば」が祝詞となった。
戦後中国国民党政府の役人や警察によって祭事の停止が強制され、
廟の取り壊しも命じられたが、
廟を守る堂守と現地の農民たちは一丸となって抵抗し、
今日まで伝えられているのである。
また、蒋介石政府は実現不可能な「大陸反攻」をスローガンとして揚げながら、台湾の伝統的な民間信仰を迷信と決めつけ、
浪費だからと言って地方の祭りを一時禁止したりなどした。
が、飛虎将軍廟はそれでも守られた。
黄文雄氏著 「捏造された日本史」より
インドネシアの国立英雄墓地では、
インドネシア独立の為に戦った日本兵、
約1000名が祀られています。
インドネシア独立記念日では、
日本の軍艦マーチを鳴らし、日本刀を持って行進します。
インドのチャンドラ・ボース公園には、
インド独立義勇軍と共に、
インド独立のために尽くした日本軍人の像が建てられています。
マレーシアの国定教科書には、
日本軍はマレーシア解放軍と記してあります。
ミャンマーの歴史教科書にも、
日本は解放軍であったと書かれています。
最後に
2006年まで生きていた武士。日本男児。舩坂弘。日本人ってすごい。
「不死身の分隊長」と呼ばれる
・米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。
・軍医が助からないと判断して自決用の手榴弾を手渡される程の瀕死の重傷。
・ちなみに軍医が来るまでの間、米軍の銃火の中に数時間放置される。
・しかし、日章旗で縛ることで止血し「夜通し這う」ことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には歩けるまでに回復。
・その後も瀕死クラスの傷を何度も負うも、不思議と翌日には回復している。
・「生まれつき傷が治りやすい体質」と、本人談。
・鬼神の如き奮戦の記録。
・アンガウルの戦いにて擲弾筒および臼砲にて米兵を200人以上殺傷。
・絶望的な戦況でも、拳銃の3連射で3人の米兵を倒す。
・米兵から鹵獲した短機関銃で3人を一度に倒す。
・左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺。
・その銃剣を「短機関銃」を手にしていた敵兵に投げ、顎部に突き刺して殺す。
・腹部に重傷を負ってついに「這うこと」しか出来なくなり、「もはやこれまで」と自決用手榴弾の信管を抜くも不発。
・戦友も次々と倒れ部隊壊滅するが、死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと
重傷なのに米軍司令部への単身斬り込み(10000人vs1人)、肉弾自爆を決意する。
・その前に自分の傷口に群がる蛆虫を拳銃の火薬で殺すが、あまりの激痛に失神。半日間死線を彷徨うが後に復活。
・手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って重傷なのに数夜這い続ける
・重傷なのに前哨陣地を突破。4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。
・ちなみにこの時までの負傷は大小24箇所。
・左大腿部裂傷・左上膊部貫通銃創2箇所
・頭部打撲傷・左腹部盲貫銃創
さらに
・右肩捻挫・右足首脱臼・火傷
・全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片
・でも敵を目の前にして「立ち上がり」、発見した米軍は激しく動揺。
・手榴弾片手に米軍に向かって全力疾走。
・残念ながら首を銃撃されて昏倒する。もちろん米軍は戦死と判断。
・一応は野戦病院に担ぎ込まれ、「これが日本のサムライだけが出来る勇敢な死に様」と評価される。
・そんな船坂は3日後に米軍の野戦病院で生き返る。
・素早く周囲の医療器具を叩き壊し、駆けつけた鬼より怖いMPに「俺を早く撃ち殺せ!」と無理を言う。
・その後も顔面蒼白の米兵を尻目に暴れまわる。
・戦地アウンガルにいる米兵の間で「伝説」と化した。
・敵ながら勇気を称えられ「勇敢なる兵士」の名を贈られる。
・数日後、ペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。
・船坂の最強伝説はペリリュー島まで伝わっており、要注意人物の筆頭に挙げられる。
・瀕死の重傷なのに収容所から抜け出すことに成功。
・この時、極度の栄養失調に加え出血多量により、両目はほとんど見えていない。
・なのに1000メートルも潜んで行って日本兵の遺体から抜き取った火薬によって、米軍弾薬庫を爆破。
・爆破後に収容所に戻り、何食わぬ顔で翌朝の点呼に参加。
・もちろん米軍は徹底的な捜査をしたが、弾薬庫が吹き飛んだ原因は判明しなかった。
・仕方がないので米軍の公式記録には「原因不明の爆発」と記される。
・耐えかねた米側に捕虜収容所を追い出され、各地の捕虜収容所を転々として1946年に無事帰国。
・実家に帰ってきたが、すでに死亡したとされ位牌まであった。
・村の人々は幽霊ではないかと噂し、しばらくの間疑いの目で見られる。
・個人の戦闘記録としては唯一戦史叢書に載せられている。