戦後、日本という国を麻痺させてきた魔語の一つに「平和」という言葉がある。
日本人はこの美しい言葉の前に、正常な思考力を失ってしまったようだ。
平和憲法のお陰で、戦後の日本の平和は保たれたと無邪気に信じるグループは、何が何でも「憲法九条」を守ろうと熱心に活動している。それほど狂信的でなくとも、平和という言葉を念仏のように唱え、平和を心から希求すれば戦争をなくなり、平和を保てると素朴に信じる愛すべき幼稚な国民が、かなりの数を占めているのが現実の日本の姿である。
戦争が何故起きるのか、この原因を本質的に追究する姿勢が見られないのは何故なのだろうか。
理論的より情緒的ありようを好む日本人の国民性なのであろうか。健康と病気の関係を例に取れば、その異常さがよく分かる。近代医学は病気の原因を徹底的に調べ研究して、健康で病気にならぬ為にどうすればよいか、その対策を明らかにしてきた歴史がある。
これと同じように、平和である為に戦争のことを徹底的に調べ、その対策を立てようとしないのは怠慢といわれても仕方がないであろう。病気は悪い怨霊のせいであるから、お呪いでその怨霊を追い払えば病気は治ると未開の人達は信じていたようである。
平和・平和の念仏で戦争という悪魔を追い払えると現代の日本人が考えるならば、未開の人達を嗤うことはできない。
戦争というものを考える時すぐに気がつくのは、戦争は異常に金のかかるものだということである。戦争をしている当事者にとってあまり採算のことは頭にない。
採算のことより、なんとしてでも戦争に勝つことが第一なのである。日清戦争・日露戦争の戦費を例にとって考えてみよう。日清戦争は10ヶ月で戦費2億3千万円、日露戦争は2年で18億3千万円であったという。
(註)当時の日本の一般会計の歳出は2.5~3億円程度であったので、日露戦争の戦費は6年分以上の財政支出となり、当時の日本の経済力で負担できる規模を大きく超えていたと言える。
誠に幸いなことに、この巨額な資金を外国が貸してくれたので、何とかこの戦争に辛勝したというのが現実だったのである。
馬遼太郎は「坂の上の雲」の中で、日本はこの借金を日ならずして見事に返済したので、欧米人は驚いたと書いているが、実際は低利債に借り替えただけで、明治44年度末政府債務残高は25.8億円と日露戦争終結時に比べ7億円あまり増加しているのである。
この日露戦争の為の外国への借金を完済したのは昭和に入ってからだと言われている。
日露戦争の時、勝ち目のないと見られていた日本に、外国人が巨額の戦費を貸してくれたのは何故だったのか。そのことを考えていくと、戦争により大儲けする人たちがいることに気がつく。
単純に考えても軍需産業、その関連産業は潤うことは明らかである。日本だけでなく当時のロシアにしてもこの巨額の戦費には頭が痛かったはずである。
日本とロシアに戦争を起こさせ、それによって金をもうけようという連中がいたことは間違いない。このようにお金の面から戦争を見ていくと意外なことに気がつくのである。それは最近の大きな戦争が一定の間隔で起きているという事実である。
1939年9月 第二次世界大戦、 1941年12月 大東亜戦争
1950年6月 朝鮮戦争
1960年 ベトナム戦争 (1960~1975年)
1980年9月 イランイラク戦争
1990年8月 湾岸戦争
2001年9月 対テロ戦争 2003年3月 イラク戦争
以上から、1970年を除き大体10年おきに大きな戦争が起きてきた歴史が見えてくる。これは単なる偶然かもしれないが、何か隠された事情があるのかもしれない。
現在の世界は資本主義全盛の時代である。資本主義というのは煎じ詰めれば金がものを言う社会である。現に世界には、その実態は明らかではないが想像を絶する巨額の財産を持った一握りの所謂国際金融財閥の存在がある。
彼らは世界のエネルギー、食料、貴金属宝石、希少金属さらに情報すらその手中に握り、これらの価格を操っている。石油を見てもそれは明らかである。
現在の石油の需要と供給をよく見ると供給のほうが勝っているが、価格は供給不足のように高騰している。先物取引などで巨額の投機資金が動き、実際の需給とは関係なくものの値段が決まっていくのが実態なのである。
この国際金融財閥は軍需産業もその手中に収めており、巨額の投資で新しい兵器を開発・製造・保有している。戦争がないとこれら兵器はどうなるのか。
劣化し陳腐化し役に立たなくなる。しかし大きな戦争が起きるとこの兵器の在庫は一掃され、新たな新兵器の開発製造が可能となるのである。
それに大きな戦争が起きると世の中の景気がよくなりいろいろな面で彼らの懐が膨らむ仕掛けになっているようである。国際金融財閥にとって戦争ほど魅力的で有り難いものはない。
従って平和が長く続けば、このあたりで戦争が起こって欲しい、さらに戦争が起きるように何かと画策することになる。以上の話は明確な証拠があるわけではないし、推測の域を超えてはいない。しかし充分にありうる話であると思う。
彼らが次の大きな戦争を起こす前に、日本としてやるべきことはないのであろうか。次の大きな戦争はかなりの確度で台湾だと考えられる。今のままで行けば、日本はアメリカに生存を委ねている以上、アメリカの意のままになり、日本の資金の殆どは戦争のドサクサ紛れに持っていかれるのが目に見えている。
それを防ぐ為には一日も早く憲法を改正し、独自の軍隊を持ち精神的に独立することが肝要である。さすれば独自の外交戦略の構築・展開も可能となる。
日本の国益を考え外国勢をも利用してやろうという、したたかさこそ、これから日本が必要とするものである。国際金融財閥に対し戦争よりも魅力的なものを日本が提供しようと、彼らを手玉に取るくらいのスケールの大きなリーダーが出てこないものか。それには国民意識の成熟が第一に望まれるところである。
(文責 大谷)「昭和財政史」第4巻、臨時軍事費より
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-1038.html
「戦争は一国でもできるが平和は一国ではできない」:フランス
「人間が戦争を忘れても戦争は人間を忘れない」:トロッキー
「平和が欲しければ戦争の準備をせよ」:ローマの格言
「世界に憐れまれて滅亡するより、世界を敵に回しても生き残る」:イスラエルの首相の言葉。
…これが世界の現実。
日本が戦争したくなくても相手が仕掛けてくることがある。
実際、危険が身に迫ってきた時、自衛隊や国家が大嫌いな9条信者達はどう反応するんでしょうか。
日本国民は正しい危機感を持ち、いつまでも、アメリカに助けてもらえるかのようなぬるま湯感と言うか、お花畑から脱却しないと、誇りない国際的孤立を招く。
諸外国から経済的に的にされ、外交的に翻弄され、国民を拉致され、領土、領海を狙われ、これでもまだ、現行憲法を盲信する事により、現実逃避をすると近い未来、日本は必ず無くなる。
「もし戦争が起こったら国のために戦うか」という世界のアンケートで日本はワースト1だし
「自衛隊なんかいらない、どこかが攻めてきたら、黙って殺されちゃえばいい」by森本卓郎
「日本人は殺されても殺さない覚悟を持て」by辛淑玉
「同胞であろうと、家族であろうと、
殺されたら泣きますが、 殺した相手も抱きしめたい。 それだけです。
あったことのない何処かの国の人殺しも、 僕の家族も、命の価値はまったく一緒です。 殺されても殺さない。 それだけです。」
「敵が攻め込んできたら家族を刺し殺して自分も死ぬ、護憲派の覚悟をバカにするな。日本が戦争するなら敵方の兵になって戦う」 by四万十市議会議員
「暴力はいけない。私は暴力はふるわない平和主義者です」
そう主張する人間は、なんだか悪い人じゃないようなイメージがある。
でも彼らが、もし警察がいない状況(例えば北斗の拳のような世界)で実際暴力をふるわれたら、どう対処するんだろうか?
隣人なら助けるか? きっと見て見ぬフリ、他人事だ。
どうやって身内を守るのだろうか? きっと逃げ惑うしかできないのだろう。
一緒に暮らしている男性が「どんな時でも無抵抗を貫く」と言って、泥棒や暴漢に遭っても戦わない人だったとしたら、そんな人をあなたは信用して伴侶にしたいと思うか?
「共に戦う」と言ってくれる人の方が安心しないだろうか?
もし日本が戦争になったら、自分だけ一目散に他国へ逃げれば良いと考えるかもしれない。
そう考える事ができるのは、国を失った人が難民として生きるのはどれだけ大変なのか知らないからだ。
民族の根幹をなくした人々は根無し草になる。
ジプシーやイスラエル、パレスチナ、インディアン、国を失った人々。
民族の拠点をなくした人々は辛い。
国家がなくなってしまえばお得意の人権論を唱えたところで、
それは全くの無力なのだ。力なき正義は無力なのと同じように。
平和で秩序ある独立した国家の存在が、人権の確保、保障には不可欠なのだ。
国がなくなったとしても、やはり人間は同じ価値観を持つ似た者同士で集まろうとするだろう。
例えば、2000年前に国を喪失したイスラエルが新しく国家樹立にいたった原因は、ユダヤ人が長年の差別を経験してきたことで「自分達を守る、自分達の国家を作ろう!」と考えたからだ。
人は近い生活スタイル、近い価値観の人間同士が集まって暮らした方が 暮らしやすいし、安心するものだ。
それに、異なるスタイルの人々があまり入り混じって暮らすのは 効率も悪い。一般的な日本の会社で「私は正月休みなんか要らないから、ラマダンを休みにして欲しい。」 とか言われても困ってしまうだろう。
同じ民族や宗教や価値観を持つ同士で囲って国を作ろうとするし、 こういった動きは人間が人間であるかぎり無くならない。
人種の文化の違いは超えることができない。 それなりの垣根が必要。
それぞれの価値観や違いを認めあって共存、共栄するためには、ある程度の距離を置く必要がある。
そのために国境は欠かせない。
国家とは私達が生きていく為の究極の拠り所なのだ。
そして国家が私達を守ってくれる様に私達もまた国家を守る義務がある。
もし国家を否定するなら国家に変わる私達の生命と財産を守る存在を提示して貰いたいものだ。
それなのに日本人には、国家観もない、国防意識もない、民族意識もない…。
周囲の国はそれが強烈なのに、日本にだけ無い。
***他関連日記***
「黙って殺されちゃえばいい」
http://kanryuudaisuki.ldblog.jp/archives/34294166.html
世界は「カオス化」する
http://kanryuudaisuki.ldblog.jp/archives/34294463.html
「イギリスのサッチャー女史が説いた核兵器有効論 」
http://kanryuudaisuki.ldblog.jp/archives/34294516.html
日本人はこの美しい言葉の前に、正常な思考力を失ってしまったようだ。
平和憲法のお陰で、戦後の日本の平和は保たれたと無邪気に信じるグループは、何が何でも「憲法九条」を守ろうと熱心に活動している。それほど狂信的でなくとも、平和という言葉を念仏のように唱え、平和を心から希求すれば戦争をなくなり、平和を保てると素朴に信じる愛すべき幼稚な国民が、かなりの数を占めているのが現実の日本の姿である。
戦争が何故起きるのか、この原因を本質的に追究する姿勢が見られないのは何故なのだろうか。
理論的より情緒的ありようを好む日本人の国民性なのであろうか。健康と病気の関係を例に取れば、その異常さがよく分かる。近代医学は病気の原因を徹底的に調べ研究して、健康で病気にならぬ為にどうすればよいか、その対策を明らかにしてきた歴史がある。
これと同じように、平和である為に戦争のことを徹底的に調べ、その対策を立てようとしないのは怠慢といわれても仕方がないであろう。病気は悪い怨霊のせいであるから、お呪いでその怨霊を追い払えば病気は治ると未開の人達は信じていたようである。
平和・平和の念仏で戦争という悪魔を追い払えると現代の日本人が考えるならば、未開の人達を嗤うことはできない。
戦争というものを考える時すぐに気がつくのは、戦争は異常に金のかかるものだということである。戦争をしている当事者にとってあまり採算のことは頭にない。
採算のことより、なんとしてでも戦争に勝つことが第一なのである。日清戦争・日露戦争の戦費を例にとって考えてみよう。日清戦争は10ヶ月で戦費2億3千万円、日露戦争は2年で18億3千万円であったという。
(註)当時の日本の一般会計の歳出は2.5~3億円程度であったので、日露戦争の戦費は6年分以上の財政支出となり、当時の日本の経済力で負担できる規模を大きく超えていたと言える。
誠に幸いなことに、この巨額な資金を外国が貸してくれたので、何とかこの戦争に辛勝したというのが現実だったのである。
馬遼太郎は「坂の上の雲」の中で、日本はこの借金を日ならずして見事に返済したので、欧米人は驚いたと書いているが、実際は低利債に借り替えただけで、明治44年度末政府債務残高は25.8億円と日露戦争終結時に比べ7億円あまり増加しているのである。
この日露戦争の為の外国への借金を完済したのは昭和に入ってからだと言われている。
日露戦争の時、勝ち目のないと見られていた日本に、外国人が巨額の戦費を貸してくれたのは何故だったのか。そのことを考えていくと、戦争により大儲けする人たちがいることに気がつく。
単純に考えても軍需産業、その関連産業は潤うことは明らかである。日本だけでなく当時のロシアにしてもこの巨額の戦費には頭が痛かったはずである。
日本とロシアに戦争を起こさせ、それによって金をもうけようという連中がいたことは間違いない。このようにお金の面から戦争を見ていくと意外なことに気がつくのである。それは最近の大きな戦争が一定の間隔で起きているという事実である。
1939年9月 第二次世界大戦、 1941年12月 大東亜戦争
1950年6月 朝鮮戦争
1960年 ベトナム戦争 (1960~1975年)
1980年9月 イランイラク戦争
1990年8月 湾岸戦争
2001年9月 対テロ戦争 2003年3月 イラク戦争
以上から、1970年を除き大体10年おきに大きな戦争が起きてきた歴史が見えてくる。これは単なる偶然かもしれないが、何か隠された事情があるのかもしれない。
現在の世界は資本主義全盛の時代である。資本主義というのは煎じ詰めれば金がものを言う社会である。現に世界には、その実態は明らかではないが想像を絶する巨額の財産を持った一握りの所謂国際金融財閥の存在がある。
彼らは世界のエネルギー、食料、貴金属宝石、希少金属さらに情報すらその手中に握り、これらの価格を操っている。石油を見てもそれは明らかである。
現在の石油の需要と供給をよく見ると供給のほうが勝っているが、価格は供給不足のように高騰している。先物取引などで巨額の投機資金が動き、実際の需給とは関係なくものの値段が決まっていくのが実態なのである。
この国際金融財閥は軍需産業もその手中に収めており、巨額の投資で新しい兵器を開発・製造・保有している。戦争がないとこれら兵器はどうなるのか。
劣化し陳腐化し役に立たなくなる。しかし大きな戦争が起きるとこの兵器の在庫は一掃され、新たな新兵器の開発製造が可能となるのである。
それに大きな戦争が起きると世の中の景気がよくなりいろいろな面で彼らの懐が膨らむ仕掛けになっているようである。国際金融財閥にとって戦争ほど魅力的で有り難いものはない。
従って平和が長く続けば、このあたりで戦争が起こって欲しい、さらに戦争が起きるように何かと画策することになる。以上の話は明確な証拠があるわけではないし、推測の域を超えてはいない。しかし充分にありうる話であると思う。
彼らが次の大きな戦争を起こす前に、日本としてやるべきことはないのであろうか。次の大きな戦争はかなりの確度で台湾だと考えられる。今のままで行けば、日本はアメリカに生存を委ねている以上、アメリカの意のままになり、日本の資金の殆どは戦争のドサクサ紛れに持っていかれるのが目に見えている。
それを防ぐ為には一日も早く憲法を改正し、独自の軍隊を持ち精神的に独立することが肝要である。さすれば独自の外交戦略の構築・展開も可能となる。
日本の国益を考え外国勢をも利用してやろうという、したたかさこそ、これから日本が必要とするものである。国際金融財閥に対し戦争よりも魅力的なものを日本が提供しようと、彼らを手玉に取るくらいのスケールの大きなリーダーが出てこないものか。それには国民意識の成熟が第一に望まれるところである。
(文責 大谷)「昭和財政史」第4巻、臨時軍事費より
http://
「戦争は一国でもできるが平和は一国ではできない」:フランス
「人間が戦争を忘れても戦争は人間を忘れない」:トロッキー
「平和が欲しければ戦争の準備をせよ」:ローマの格言
「世界に憐れまれて滅亡するより、世界を敵に回しても生き残る」:イスラエルの首相の言葉。
…これが世界の現実。
日本が戦争したくなくても相手が仕掛けてくることがある。
実際、危険が身に迫ってきた時、自衛隊や国家が大嫌いな9条信者達はどう反応するんでしょうか。
日本国民は正しい危機感を持ち、いつまでも、アメリカに助けてもらえるかのようなぬるま湯感と言うか、お花畑から脱却しないと、誇りない国際的孤立を招く。
諸外国から経済的に的にされ、外交的に翻弄され、国民を拉致され、領土、領海を狙われ、これでもまだ、現行憲法を盲信する事により、現実逃避をすると近い未来、日本は必ず無くなる。
「もし戦争が起こったら国のために戦うか」という世界のアンケートで日本はワースト1だし
「自衛隊なんかいらない、どこかが攻めてきたら、黙って殺されちゃえばいい」by森本卓郎
「日本人は殺されても殺さない覚悟を持て」by辛淑玉
「同胞であろうと、家族であろうと、
殺されたら泣きますが、 殺した相手も抱きしめたい。 それだけです。
あったことのない何処かの国の人殺しも、 僕の家族も、命の価値はまったく一緒です。 殺されても殺さない。 それだけです。」
「敵が攻め込んできたら家族を刺し殺して自分も死ぬ、護憲派の覚悟をバカにするな。日本が戦争するなら敵方の兵になって戦う」 by四万十市議会議員
「暴力はいけない。私は暴力はふるわない平和主義者です」
そう主張する人間は、なんだか悪い人じゃないようなイメージがある。
でも彼らが、もし警察がいない状況(例えば北斗の拳のような世界)で実際暴力をふるわれたら、どう対処するんだろうか?
隣人なら助けるか? きっと見て見ぬフリ、他人事だ。
どうやって身内を守るのだろうか? きっと逃げ惑うしかできないのだろう。
一緒に暮らしている男性が「どんな時でも無抵抗を貫く」と言って、泥棒や暴漢に遭っても戦わない人だったとしたら、そんな人をあなたは信用して伴侶にしたいと思うか?
「共に戦う」と言ってくれる人の方が安心しないだろうか?
もし日本が戦争になったら、自分だけ一目散に他国へ逃げれば良いと考えるかもしれない。
そう考える事ができるのは、国を失った人が難民として生きるのはどれだけ大変なのか知らないからだ。
民族の根幹をなくした人々は根無し草になる。
ジプシーやイスラエル、パレスチナ、インディアン、国を失った人々。
民族の拠点をなくした人々は辛い。
国家がなくなってしまえばお得意の人権論を唱えたところで、
それは全くの無力なのだ。力なき正義は無力なのと同じように。
平和で秩序ある独立した国家の存在が、人権の確保、保障には不可欠なのだ。
国がなくなったとしても、やはり人間は同じ価値観を持つ似た者同士で集まろうとするだろう。
例えば、2000年前に国を喪失したイスラエルが新しく国家樹立にいたった原因は、ユダヤ人が長年の差別を経験してきたことで「自分達を守る、自分達の国家を作ろう!」と考えたからだ。
人は近い生活スタイル、近い価値観の人間同士が集まって暮らした方が 暮らしやすいし、安心するものだ。
それに、異なるスタイルの人々があまり入り混じって暮らすのは 効率も悪い。一般的な日本の会社で「私は正月休みなんか要らないから、ラマダンを休みにして欲しい。」 とか言われても困ってしまうだろう。
同じ民族や宗教や価値観を持つ同士で囲って国を作ろうとするし、 こういった動きは人間が人間であるかぎり無くならない。
人種の文化の違いは超えることができない。 それなりの垣根が必要。
それぞれの価値観や違いを認めあって共存、共栄するためには、ある程度の距離を置く必要がある。
そのために国境は欠かせない。
国家とは私達が生きていく為の究極の拠り所なのだ。
そして国家が私達を守ってくれる様に私達もまた国家を守る義務がある。
もし国家を否定するなら国家に変わる私達の生命と財産を守る存在を提示して貰いたいものだ。
それなのに日本人には、国家観もない、国防意識もない、民族意識もない…。
周囲の国はそれが強烈なのに、日本にだけ無い。
***他関連日記***
「黙って殺されちゃえばいい」
http://kanryuudaisuki.ldblog.jp/archives/34294166.html
世界は「カオス化」する
http://kanryuudaisuki.ldblog.jp/archives/34294463.html
「イギリスのサッチャー女史が説いた核兵器有効論 」
http://kanryuudaisuki.ldblog.jp/archives/34294516.html