これ↓
思いやりのある行動は綺麗な結果を生むとは限らない。
人格障害者や快楽殺人者。
人の善意を利用しようとする詐欺師など。
彼らに優しさは通用するだろうか。信頼しても良いのだろうか。
多くの人は善意で死刑反対と叫ぶがそれは正しいのかを問いかける例を以下に紹介。
1: 名無し募集中。。。 2016/01/11(月) 22:54:58.20 0
妻を殺されたら死刑賛成派に回り
1人殺しても死刑にできるように法律を変えさせた
って本当ですか?
本当なら凄いですね
人権論者なんてそんなもんです
犯人(66)は山一証券との株取引で損をし、そのうらみから同証券での交渉相手だった岡村弁護士宅を訪ね、応対に出た夫人を用意したナイフで刺し殺した。
岡村弁護士は犯罪の被害者になって初めて「司法と被害者の距離を実感した」という。←俺が拡大しました。俺的注釈。人権派は美辞麗句を信じすぎて「綺麗事のいきつくところが破壊になる」のを認識できない。殺人者を調べたところ虐待をうけた子供だけでなく病的な過保護の子供も猟奇的な犯罪をすることがわかった。 と誰か言ったんだが名前忘れた。日本に限らず世界中で人権は安全や人命よりも重くなっている。人権が優先されるのではなく安全が優先されなければ平和がくるはずがないのに多くの人がソレを認識できないのだ。
男が捕まって裁判にかけられても、その言い逃れに被害者の岡村弁護士は一言も反論できず、「じっと唇をかんで」黙っているだけだった。「なぜ、ここまで被害者が捨て置かれるのか」
やっと法廷で証言する機会を得た岡村氏は「(犯人を)極刑にしていただきたい」と訴えた。被害者としては当然の思いだった。
そして昨年夏、東京地裁で判決が下された。「主文、被告人を無期懲役に処す」
彼の証言は聞き流された。というか、日本の法廷には長年積み上げられたパターンがあって、それに外れる、例えば被害者の声を反映するといったことはマニュアルにはなかった。
どういうパターンかというと、「一人殺しただけでは死刑にはしない」「判決は求刑の八掛け」「相手が少年ならうんと減刑して『更生して罪を償うように』と付け加える」「刑罰を厳しくしても犯罪は減らないというせりふも折に触れて挿入する」等々だ。
教養もいらない、常識もいらない。ただ司法試験をパスするだけで裁判官になれる日本の法曹界では、はっきりいって頭を使う判決は無理がある。
だから、こういう事件はこう、ああいうのはどうというパターンにはめこむ方式が最も無難な方策として取られてきた。
この判決も「一人殺しただけでは死刑にしない」慣例と、「判決は求刑の八掛け」に従った模範主文で、締めの言葉も何度も使われた「自分の犯した罪に向き合って生きるように」だった。「被害者の気持ち」を斟酌するパターンはもともとなかったのだ。
岡村氏は怒り、それは大きな波紋を呼んだ。なぜなら彼は一般人ではなく同じ司法試験を通った身内で、なにより人権に一番うるさい日弁連の元副会長だった。
これは過去にはなかった例で、それで裁判所も検察庁も考え直した。まず検察庁。求刑の八掛けで無期なら慣例通りだが、あえて控訴した。「身内が被害者の場合、一人殺しても死刑にしようではないか」というわけだ。
裁判所も思い直した。岡村弁護士の、殺された妻の遺影の法廷持ち込みを認めようじゃないか。
たとえばこの三月、山口県光市で起きた母子殺害事件の判決公判では、一般市民である夫が殺された二人の遺影を持ち込みたいというのを「被告に心理的な圧迫をかけるから」と禁止していた。日弁連の人権派弁護士の要求に沿ったしきたりによるものだ。
それが身内の弁護士が被害者になったとたん、コペルニクス的転換を示したわけだ。ブレイディと同じに、ヒトはその痛みが分かれば大きく変わるものである。
岡村弁護士は東京高裁での初公判で被告に向け遺影を高々と掲げた。そのおかげで光市の母子殺害事件控訴審でも、夫に「被告に見えないように」という条件で遺影を持ち込むことが認められた。大いなる進歩である。
腐ってやがる
要するに馬鹿なんだな
そして、判決の日。 検察側は死刑を求刑、岡村さんも、当然死刑を望んでいた。 しかし、判決は無期懲役。 納得のいかない判決だった。
岡村さんはかつての自分の姿を思い出した。 それまで岡村さんは、被告に求刑より軽い判決が下されたときは、弁護士としての満足感を感じていた。
そこに、悲惨な被害者いたことなど、考えもしなかったのだ。
愛する妻を亡くした絶望、40年近く打ち込んできた弁護士という仕事に対する自責の念。 岡村さんは、大きな二つの十字架を背負うことになったのである。そんなある日のこと、妻の友人から手紙が届いた。 そこには、生前のエピソードが書かれていた。 それは地域の集まりでの出来事だった。 眞苗さんは、自己紹介で「私の趣味は主人です」と言ったという。 妻の笑顔が胸に浮かんだ。 そして、岡村さんは、こんな辛い思いを誰にもさせてはいけないと決意した。
事件から3年、岡村さんは70歳で犯罪被害者の会、通称「あすの会」を設立。 たくさんの犯罪被害者の前で自らの思いを発信。 あすの会の会員は日に日に増えていった。そして、司法制度の改革を目指し、政治家や役人への働きかけをスタートさせた。 岡村さんが最初に訴えたのは、犯罪被害者の権利。 これまで、傍聴席で見守るしかなかった犯罪被害者が、法廷の柵の中に入り、裁判に参加できる制度を提案した。しかし、専門家達から予想以上の反対意見がでた。 実は、今から23年前、最高裁で裁判の在り方をしめすある判決が下されていた。 その判決で、「裁判は国の秩序を守るためのものであって、被害者のためのものではない」と名言。 それ以来、法廷は検察と被告が争い、裁判官が判決を下す場であって、そこに被害者の居場所が無いというのが、司法の世界の常識となっていた。
そこで岡村さんは、被害者が裁判に参加できる制度が確立されているドイツを訪問。 その実情を自分の目で確かめることにした。 そして、被害者が参加して裁判が失敗することはないという確信を得た。
新制度成立の確かな手応えを感じた岡村さんは、更なる行動に出た。 署名活動を始めたのだ。 犯罪被害者のための裁判の実現を専門家ではなく、直接国民に訴えた。 その地道な運動の輪は徐々に大きくなり、署名活動は全国に広がっていった。
そして、1年半にわたる署名活動で、実に55万に及ぶ署名が集まったのだ。 それらを携え、岡村さん達が向かったのは、首相官邸。 小泉総理大臣(当時)の元に直接訪問し、犯罪被害者の現状を懸命に訴えた。 すると、小泉総理は犯罪被害者の権利回復に付いて取り組むことを約束、大きな一歩だった。だが、専門家達からは尚も反対意見が相次いだ。 深夜に及ぶ会議資料の作成。 反対意見の多い会議へのストレス。 70歳であすの会を立ち上げ、岡村さんはすでに76歳、体力的には限界に達していた。 だが、立ち止まる訳にはいかなかった。
岡村さんは、会議で自分の思いをぶつけた。 そして、1年にも及ぶ検討会は終わった。 これを元に、政治の方針となる計画案が作成される。内閣府から基本計画案が送られてきた。 そこには、法廷への参加も被害者への保証も全て盛り込まれていた。 さらに、「裁判は被害者のためにもある」とはっきり書かれていた。 最高裁の判例を覆す言葉だった。
そして、2007年6月20日。
いくつかの修正が加えた後、被害者が裁判に参加できる制度など、岡村さんの思いが盛り込まれた法案が圧倒的多数で可決された。 それは、日本の裁判の在り方が変わった瞬間。 眞苗さんの事件から実に10年が経過していた。
http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/131031_2.html
13: 名無し募集中。。。 2016/01/11(月) 23:20:23.09 0
これよむと司法関係者はみな反対してるな
政治家のほうがまともな判断をしたわけか
権力側は自分たち権力者の行いは正義だから特別扱いしろってかwww
俺が嫌な思いしたから死刑賛成
死刑基準がどんどん緩くなるわけか
とか番組やって美談にしてたな
最初から善人だった人より誉められるパターン
犯罪者が減って一番困るのは弁護士
身内が殺られたら誰だって考えることは同じ
元スレ
死刑反対派の弁護士が妻を殺されたら死刑賛成派に回り1人殺しても死刑にできるように法律を変えさせたって本当ですか?
犯罪を環境のせいにして犯罪者の権利を守ろうとする人達
精神科医小田晋先生の著作より
・・・・・・・以下過去記事・・・・・・・・・・・
「秩序破壊型」の言論が出てくるのは、とにかく少年非行を環境のせいにしてしまい、本人の責任はなるたけ問わない、という発想の結果であると思われる。
しかし、こういう形の保護主義は果たして正しいだろうか。
こういう考え方の背後には1970年代、全共闘時代の
1.犯罪、苛め、不登校等の教育病理、社会病理は現体制の矛盾に発しており、革命以外に解決の方法はなく、それを個人の責任に帰するのは間違いである。
2、それどころか、犯罪者、非行少年、精神障害者ホームレスなどの反社会的エネルギーこそが体制内化した労働者、農民に代わって革命の原動力となるーという新左翼、過激派の発想が存在する。
(中略)その中で培われた社会に対する「加虐の快感」は、尾を引いて「社会解体促進同盟」(略)
「犯罪者応援団」とでも言う他ないような動向になって、国家、司法、精神医療、教育、家庭などおよそその邪魔になりそうな制度全般を麻痺させその機能を失わせようとしているのである。
その動向が今、最も先鋭に打ち寄せているのが教育の領域だと言える。
「人権」「保護」の主張は、場合によってはその美名の下に犯罪、非行に対する社会の抑制力を消滅させようとするものにすぎないのであり「隠された動機」の存在を読み取ることが出来るのである。
(中略)
実際、全共闘運動は、日本に革命を起こすことには失敗したが、社会を破壊することにはある程度、成功した。
この成功体験による快感、攻撃衝動の充足が彼等の言論の大きな特徴に為っている。
だからこそ、全共闘世代及びその影響を受けたより若い世代の「人権派」の主張は一貫して
「建設」「構築」よりも「破壊」「攻撃」に強く傾斜している。
1970年代以来、彼等は精神医療や矯正のシステム、警察組織の効力を弱めよう破壊しようとしてきた。
また、それぞれ、部分的には一理ありそうな代用監獄制度への反対、保安処分反対、管理教育反対を唱え、子供の権利を擁護すると言いながら、
結果的にはいじめっ子のような加害者の人権だけに加担している。
(引用終了=小田晋)
*小田晋氏の昔の著作の中の一部分ですがここで注目したいのは、
全共闘世代の基本的理念は、全ての反社会的行為が、現体制の責任であるかのようにマスコミを使って世論を誘導する、ということ、
従って犯罪は個人の責任に帰するのではなく社会(現体制)が負うべきである、ということ、
だから現体制、現制度そのものを破壊すべきである、ということ。
こうしてみれば彼等の考え方そのものはその1970年当時からいささかも変わっていない、と思えます。
彼等の目的は結局ただ、ひとつ、
「革命」なのです。
暴力革命はこの日本ではもはや無理。
それで官僚や教職についたり政治家になったりして、内部からの破壊を長年に渡って続けてきた。
ウカウカしてる間にいつのまにか社会の中枢にはそのような革命をあきらめない勢力が増殖していった。
政治家、マスコミ、官僚それこそ三位一体になって国民などおかまいなし、自分等の理想である
共産主義、社会主義国家を築く為長年に渡り活動をやめなかったのです。
(略~)
小田晋氏の慧眼には敬服します。
こうして著書などで危険を指摘されていましたがテレビに出てくる精神科医はほとんど御用学者。
反日サヨク色の強い人が重用されますので小田先生の正論は、広くは行き渡りませんでした。
残念です。
(以上2009年の自筆記事より
時代に会わない部分は削除)
ここ最近、先進国では次々と死刑を廃止しようという動きがさかんである。
イギリスを筆頭にヨーロッパのほとんどは廃止しており、ロシアやオーストラリアなど、死刑廃止論者たちの声は確実に世界に広がりつつある。
しかし、
死刑が犯罪を防ぐといった研究結果が多数出ている
ことはどこのメディアも報道しない。
そして死刑復活を望む声が移民政策に苦しむ欧州からあがってきているのも報道されない。
実際に殺人者を死刑にすることは、殺人を減らす働きがあるのかどうかという研究もなされていた。
そしてその答えは「YES」と出たそうだ。
一人の殺人者を死刑にすることによって、3~18人の命を助けることができたかもしれないという結果が出ている。
当然この結果に反論者たちは少なからずショックを受け、データそのものに懐疑的ではある。
しかしながら、おもしろいのは、このデータを出した教授も死刑反論者だったようで、彼のセリフが非常に印象的であった。
「死刑にはそりゃ反対さ。だが結果は、死刑が殺人を予防すると出ている。これをどうしたらいいのかね?隠すのかね?」
当然同様の研究は今までにもなされていて、多少の数の差はあるものの、同じく死刑による別の殺人の減少の効果をあげている。
今までに出た結果として以下の例がある。
・一つに死刑に対し、平均18の殺人を妨げる効果があがる(全国を対象にしたエモリー大学の教授による2003年の研究)
・イリノイ州での2000年の死刑一時廃止により、4年で150の殺人を誘発したとヒューストン大学の教授が2006年発表
・死刑を早期に執行することは、殺人を減少させる効果を強固なものにする。2.75年早めることによって、殺人を一つ防ぐことができる。(2004年のエモリー大学の教授の研究による)
2005年には米国では16,692もの過失でない殺人事件があり、そのうち死刑執行されたのは60件だそうだ。
人命を尊重するという道徳的な理由で死刑を反論する人が多いが、この研究結果が正しいということになれば、この道徳そのものが揺り動かされてくるのではないだろうか。
殺人犯を一人救ってやるために、数人死ぬという結果が出るとなると・・・
※組織に入団する条件が敵対組織の人を殺◯すか何かしらの犯罪を犯す事。とされる場合がある。彼らは出所後更に多くの犯罪を犯すことを前提に刑務所に入るのだが全てが見つかって捕まるわけではない。そういったケースを計算にいれると…
心にナイフをしのばせてを読んで
「高一の息子を無惨に殺された母は地獄を生き、同級生の犯人は弁護士として社会復帰していた!」
事件後少年は、家裁調査官とのやりとりでこう供述している。「事件をプラスに生かして絶望的になるまいと考えた」と。
殺害を悔いているとか反省とか謝罪の言葉がどこにもなく、自分を励まし、自分を正当化するために法律の勉強を始めていた。
その後、少年は、少年法に守られているおかげで、刑事処分もなく前科もつかず、人生を一旦リセットし、社会復帰をする。
月々2万を30年払うという慰謝料の約束は、勝手に2年で止めてしまった。
進学し結婚しマンションを購入。その間ずっと、遺族への謝罪はなし、墓参りもなし。
一方、被害者遺族は時間が止まったように苦しみ続けている。
腹の底から沸き上がる犯人への憎しみに押しつぶされそうになる。精神的な傷が深すぎて素直に怒りを表現できなかったりする。
なぜか被害者遺族が後ろ指を指されて噂されたり、無神経な言葉に傷ついたりする。世間は被害者遺族の感情にも無知なのだ。
ふさぎ込み脱毛症になったり病気がちになったり、何かに依存し始めたり自殺未遂をしたり、何十年も事件に縛られずっともがき苦しみ続けている。
30年、時が経った。
被害者遺族は家賃滞納で立ち退きを迫られていた。
そんなタイミングで、少年Aを見つける。なんと少年Aは弁護士として事務所を構えていたのだ!
一人の命を奪った少年が、国家から無償の教育を受け、少年院を退院したあとも最高学府に入って人もうらやむ弁護士になった。
一方わが子を奪われた母親は、今や年金でかろうじてその日暮らしをしている。にもかかわらず、弁護士になった少年Aは慰謝料すら払わず平然としているのだ。
被害者遺族は動揺した。あんな事件を起こしたのだから、当然生活にも困っているだろうと同情すら寄せていたのに、弁護士とわかって裏切られた気分がした。
慰謝料の話をすると、少年Aは「少しぐらいなら貸すよ、印鑑証明と実印を用意してくれ、50万ぐらいなら準備できる。」と一方的に電話を切ってしまう。
本来なら慰謝料を払わなければならない立場なのに、なぜ「貸すから印鑑証明と実印を用意しろ?」となるだろう。
謝罪の意志がないどころか高圧的な態度だ。理解できない。しかし相手は法律のプロだ。被害者遺族は怖くなってしまう。
被害者遺族が「なぜ謝りに来ないのか、謝ってくれ」と言うと、「なんで俺が謝るんだ」と言って電話を切ってしまう。
その後も「今さらなんだ」「話が違う」「誰かに入れ知恵されたのか」と暴言を吐き、以後音沙汰なくなってしまう。
彼にとってはあの事件はすでに過去の出来事なのだ。加害者少年は早い段階で開き直り、謝罪もせず、前向きに人生の再出発に成功しているのだ。
少年法の趣旨からすれば、彼は間違いなく「更正」したといえる。
だが一方で、彼によって奈落に突き落とされた家族は、いまだ癒されずに背負い続けている。
税金は、加害者の人権にきめ細かく配慮しながら、被害者の遺族には何のケアもせず、彼らを癒そうとする手だてすら持たない。
なんと不公平なのだろう。被害者でなくとも釈然としない。
少年法を免罪符に、加害者もその親も責任を免れるとしたら、少年法のどこかが間違っているのである。
「更正」とは、彼ら被害者が少年Aを許す気持ちになったときに言える言葉なのだ。心の底から「ごめんなさい」を言えないのなら、更正したとは言えない。
良心をもたない人たちを読んで
「人間らしい心を取り戻し心底反省し真摯に謝罪し罪を償っていく」 という被害者が望むような更正は、彼に期待できない。
反社会性人格障害といって、生まれつき人としての良心がない人がいます。
この本は反社会性人格障害の人達の見分け方と対処法について書かれています。
帯にある、「うそをつき、空涙で同情を引き、追いつめられると逆ギレする…」という文を見て「こんなやつ知り合いにおるやん」と思って購入。
彼等はこの表紙の絵のように、刑務所に行くようなこともなく一見普通の人だったり、魅力的でさえある。
以下の7つの特徴のうち、少なくとも3つをみたすことが条件とされている。
1.社会的規範に順応できない
2.人をだます。操作する
3.衝動的である、計画性がない
4.カッとしやすい、攻撃的である
5.自分や他人の身の安全を全く考えない
6.一貫した無責任さ
7.他の人を傷つけたり虐待したり、ものを盗んだりしたあとで、良心の呵責を感じない。
彼等は感情がない。感情移入もしない。人を操作するために悲しむフリをすることはあるが。
彼等の暴走をとめるのは、本人内側からの良心ではなく、法律などの外部的要素だけだ。
彼等は良心がないので究極に自由になれる。どんなことでもやってしまう。
良心をもたないビジネスのやり方が、莫大な富を生み、あくどい人間が勝ち組になる。
まるで正直者がバカを見る、と言わんばかりに。
世間をにぎわす犯罪者に対して、善良な人達は「悪しき行動は、まちがった判断の結果だ」「話せばわかる」「育ちが悪かったかわいそうな人」と同情するかもしれない。
しかしそんな生易しいもんじゃない。
彼等は、良心を持つ人のそんな心につけいるのだ。
「良心の欠如」は、根底から精神構造が違い、精神医学の範疇に収まらず、いまのところ効果的な治療法はない。もちろん彼等は治ることも望まない。
彼等に恩情措置をほどこす必要はないだろう。
「死刑は都合のいい制度」=金川被告が被告人質問-土浦連続殺傷事件・水戸地裁http://
茨城県土浦市で昨年3月に起きた連続無差別殺傷事件で、殺人などの罪に問われた無職金川真大被告(25)の公判が3日、水戸地裁(鈴嶋晋一裁判長)であった。金川被告は弁護側の被告人質問で、殺人について「まず死にたい、そのための殺人」と述べ、「死刑は自分にとって都合のいい制度」と話した。
金川被告は高校時代から死にたいと思っていたと話し、「2008年1月ごろからは面白いゲームもなくなり、今なら死ねるなと思った」と事件に至った心情を語った。
弁護人が「被害者の恐怖感や遺族の悲しみを感じないか」と尋ねると、「ライオンはシマウマを殺すとき、そういうことを感じるでしょうか」と答えた。事件について「(自分は)常識にとらわれていない、善悪自体がない」とも述べた。
犯罪性は遺伝するのか
オランダのある家系では犯罪を犯す全ての人がMAOA(モノアミン酸化酵素A)の欠落する遺伝子疾患を持っていた。
オランダの遺伝学者のハン・ブルーナー博士の論文。
https://first-genetic-testing.com/character/crime.html
教育ですべてが変わると思っている慈善者、偽善者に問いかけたくなる内容ではないか。
「犯罪者の子どもは所詮、犯罪者なのだろうか」
海外では「サイコパスと遺伝」についての驚くべき研究結果も発表されている。
イギリスで、1994年から3年間に生まれた5000組の双子の子どもたちを対象に、反社会的な傾向の遺伝率調査が行なわれた。
それによると、「冷淡で無感情」といった性格を持つ子どもの遺伝率は30%で、残りの70%は環境の影響だとされた。
次いで研究者は、教師などから「矯正不可能」と評された、きわめて高い反社会性を持つ子どもだけを抽出してみた。
その結果は、衝撃的なものだった。
犯罪心理学でサイコパスに分類されるような子どもの場合、その遺伝率は81%で、環境の影響は2割弱しかなかった。しかもその環境は、子育てではなく友だち関係のような「非共有環境」の影響とされた。
もちろん、あくまでもイギリスでの一研究結果に過ぎず、また犯罪全般ではなく「サイコパス」に限っての話である点は忘れてはならない。安易に「犯罪と遺伝」を結びつけるのは許されないことだろう 。
しかし、昨今、何不自由なく育ったにもかかわらず、異常な殺人や誘拐などをおこなった「少年」「少女」のニュースがよく伝えられる。
恵まれた環境で、教育熱心な親に育てられたのに、理解しがたい残酷な事件を起こす若者の「動機」については、多くの場合、納得のいく説明はなされないままだ。
(以下略)
※全てを環境のせいにする勢力の理論では恵まれた環境に育ち愛情を注がれた子供は犯罪を犯さないはずである。しかし、例外も存在しているのだ。
http://www.dailyshincho.jp/article/2016/05120520/?all=1
だめ男のコメント
実際に見聞きした反社会側の会話
犯罪を見つかるようにやるやつ。
警察に通報されるやつは素人だ。
見つからないように、反抗できないように、警察にも言えないようにやるもんだ。
仮に捕まっても出てきたあとに復讐すれば相手は何もできない。
ハインリッヒの法則というのがある。
一件の大きな事故・災害になる前には軽微な災害や事故にならないヒヤリハットが沢山ある。
故にそのヒヤリハットを防ぐことが重大事故に繋がるという。
これに似た考えは犯罪にも当てはまるのではないだろうか。
捕まる人の多くは捕まるまでに捕まっていない迷惑行為を多くしていた。
実体験として見た反社の人達はそうだった。
彼らは日頃から迷惑行為をしている。しかし、捕まらない。
プロであろうとすればするほど見つからないように行うし、捕まったところでたいしたことがないと言う人もいる。
厳罰化しても検挙率が変わらないから意味がないと言う人もいる。
例えば飲酒運転は厳罰化したら劇的に件数が減少した。
周りの監視と責任もセットの厳罰化は効果が間違いなくあった。
はるか昔、日本では厳罰化で治安の良さを維持していた時代がある。
日本を旅した外国人が日本の治安の良さに驚愕していたという記録があるそうだが、その人は日本の治安の良さはさらし首やひきまわし、盗みで死刑など、高い道徳教育と厳しい刑罰にあるのではないかと考えていたそうだ。
今の時代には考えられないが、罪人にどんな罪を犯して、どこ出身の人かわかるように入れ墨をいれ、一目見て犯罪者とわかるようにしていた時代がある。
周りから差別される。恥になる。警戒される。大衆に犯罪者だとさらされる。
今の時代には考えられない犯罪者に対する厳しい姿勢が犯罪を減らしていた時代があった。
外国に目を向ければキューバやドバイでは厳罰化で治安を劇的に改善させた実績がある。
このような実績があるが人権等を大義名分に死刑や厳罰化は反対の流れになっている。
それとは逆に、犯罪者の狂暴性は増しており彼らは力を誇示するために一般市民を残酷に処理する動画を流したり、ターゲットの親類や無関係の人も見せしめに脅し、殺したりもするが、死刑反対論者は彼らのこのような行為を声を大にして止めようとはしていない。
死刑反対と叫ぶ声と同じくらいに殺人反対と言えば世の中が変わると思うが、このような行為をさせる環境が悪いと叫ぶ。
仮に犯罪を徹底的に取り締まろうとすれば人権主義者が思いやりや自由尊重など綺麗な言葉を並べて反対するだろう。
つまり今の時代は犯罪者側が一般人を厳しく処理し、国が厳しく対処できない状態を善意で作っている。
参考に
移民政策のトリレンマというのがあり、
移民受け入れ、安全な国家、国民の自由の三つのうち、二つでしか同時に成立させることはできない
という世界の法則。
移民受け入れと安全な国家を両立したいならば、シンガポールのように国民の自由を制限しなければならない。
フランスは移民受け入れにより、安全な国家を喪失し、政府が非常事態宣言をし、令状なしの多数の捜索が行われ、国民の自由が制限されている。
安全を最優先と自由、人権の両立はなりたたない。
人権や病気を理由に心神喪失無罪が成り立っている現状を見れば何か伝わるものがあるのではないだろうか。